UXエンジニアになりたい人のブログ

エッチだってしたのにふざけんなよ!

自分のアタマで考えるのをやめよう!

自分のアタマで考えようという本があったと思います(未読)が、自分のアタマで考えるのをやめる選択肢もあんじゃね?というお話。わりかし実話。

 

説明が面倒な上に得るものが少ない

最高責任者とか芸術家とかでない限り、自分のアタマで考えたことは「誰かに説明して納得してもらう」というフェーズが必要なわけですが、これが超めんどくさい!

去年と同じで行きましょう!とか競合他社と同じ戦略で行きましょう!とか、偉い人の方針をまるごと継承しましょう、ならサラッと通ることに対して、「現状の問題を分析するとこういう構造になってて、どこがどう問題と考えられるので、このようにやりかたを変えれば、このくらいよいことが起こるでしょう」みたいなのを説明するがすんごくすんごく面倒。

話の前提をちゃんと共有しないと理屈が通らないので、考えに至る前提条件とかを事細かに説明して、相手との認識が合わなかったら合うように調整して、、、と、この過程も面倒。それで分かってもらえればいいけど、認識や考え方の違いにより分かってもらえなかったりすることも多々あってかなりストレスがたまる。

 

それでようやく「自分のアタマで考えたこと」を分かってもらえても、今度は責任論になる。それって絶対?100%?間違ってたら責任取るの?去年と同じやり方なら去年と同じ結果になる、ってのは共通意見だけど、お前のはどうなの?的な。

そんなん100%なんて世の中にありえないだろ、と思いつつも言い出したのが自分であるし、時間をかけて“分かっていただいた”手前、しぶしぶ了承せざるを得ないという。

 

客観的にまとめると、自分のアタマで考えた結果、説明のためにものすごいコストや苦労をかけてストレスをためこみ、結果自分の責任が増しただけ。なにこれ?自分で考えるのなんてやめて、他人の、いつものやりかたに乗っかったほうが楽じゃね?

 

自分がバカだと実感してしまう

これ、人によると思うけど「よし、この件は自分のアタマで真面目に考えてみよう!」と思い立った結果、、、、なんにも結論が導き出せねえ・・・ってなったこと、ないですか?

やべえ、どの因子がどう関わってるのか整理しきれねえ。そもそもどこの範囲まで前提として考慮に入れるべきかが全然わかんねえ。「Aと言う視点なら正しいとも言えるし、Bという視点なら間違いとも言える」みたいな項目ばっかりで、結論を下せねえ・・・。なにを考えても「他人がだした別案」に引っ張られちまう。あれ?もしかして自分バカなのかな?みたいな。

そのへんなんとかごまかしつつ、ちょっと"甘い"かなって思いながら考察した結論を他人に見せると、もうなんていうのかな、アタマの鋭いやつってのはどこでもいるもので、ピンポイントでその迷い点みたいのを突かれちゃったりする。自分でも「自分バカなのかな」と薄々感づいてる点を、改めて他人にも認識させられるという、この痛恨の一撃的な大ダメージ!

これの根本的な原因は「世界は自分のアタマで整理しきれるほど単純ではないし、不確実性に満ちている」ってことで、そこからすると結論を間違えたり、推論を見失ったりすることは別に恥じることでもないんけど、そういう大きなこと忘れちゃうのよね人は。

それで、結構多くの人は「自分は天才とまでは言わないけども、周囲の中でまあまあ“使える”ほうだし、今は流されてるけど、本気出せば自分で考えて結論出すようなこともできるもんね!」みたいな根拠のない自信を持ってしまう。それが根こそぎ崩れるのはでかい。歳をとってるほどでかい!

 

これも客観的にみると、自分のアタマで考えたばっかりに、自分がバカであると発見して勝手に凹んでる、ってだけ。あれ?なにしてんだろうねこの人。

 

 

さて、親とか親戚とか近所の八百屋さんとか、そういう身近な大人を見てみよう。自分のアタマで考えてる人って、ものすごく少ない。浅いし、近視眼的だし、人生綱渡りだな、的な印象を持つことすらある。

でも、その人たちって、不幸ですか?かなり幸せそうじゃない?自分はすごいという自信のもとに楽しく過ごし、うまくいかなかったことは運が悪かった、また次があるさ、と片付けてポジティブに生きている。掘り込んだ原因分析なんてしないで場当たりに生きてる。若者から人生訓を聞かれたら嬉々として語っちゃう、的な幸せさに溢れてる。

それに対して、真面目に自分のアタマで考えて、結果すり減ったり自己嫌悪に陥ったりするのって、あまり人生を幸せにする行為ではないんじゃなかろうか。どうだろう?