UXエンジニアになりたい人のブログ

エッチだってしたのにふざけんなよ!

労働人口減らしてでもバカを排除したほうが社会全体は幸せになるんじゃね?

子どもの才能チェックBOOK―得意ジャンルが見つかる、伸ばせる (教育単行本)

要旨

ホワイトカラーの業務は、大半を占めていた情報の転送と加工の効率が劇的に向上したことで"才能集約型"にシフトしている。

この状況では突出した才能が莫大な富を生むとともに、自分の生活を守るために業務遂行を阻害するような個人が全体の生産性に大きく影を落とす。

このような個人を排除し、一部の突出した才能が力を最大限発揮できる環境を整え、その他の人々はそのおこぼれにあずかるような社会を目指す方が、今より幸せな社会になるのではないだろうか。

 

凡人が何百人集まっても天才1人に及ばない

10倍プログラマという話がある。プログラミングの世界では、優秀なプログラマと凡庸なプログラマの間には10倍の生産性があるという話だ。この話は間違いであると思う。

実際は、凡人がいくら集まろうとも、天才1人の質には全く及ばない。

プログラミングの本質は問題解決であり、ただ人が集まるだけで問題が解決するわけではない。解決にはアイデアや指針が必要で、大多数はそれに従って作業をしているだけだ。最初の指針やアイデアを生み出すには、天才的な偏りやひらめきが必要で、その質が結果の質に大きく影響する。重要なのは量ではなく、才能なのだ。

つまり、プログラミングの本質である「問題を適切に細分化・整流化し、継続して改善していく仕組みを作る能力」というのは才能に強く依存するということなのだと思う。

とりあえず、この種の仕事を労働集約・資本集約になぞって、才能集約的産業と名付けることにする。

 

パターンとしてはプロスポーツ選手とか芸能人とか芸術家とか起業家とかに近い。突出した才能が大半を支配し、その才能の持ち主が個人では抱えきれないほどの富を手に入れるひどく偏って不公平な世界。

草野球選手がいくら集まってもプロ野球選手1人が生み出す富の量に全く及ばないし、歌い手がどれだけ集まってもきゃりーぱみゅぱみゅ1人が生み出す経済規模に達することはできない。そもそも比べること自体がナンセンスだ。そんなイメージをしてみれば想像はしやすいだろう。

もう1ついうなら、2位じゃだめな世界。1位と2位以下がシェアやパイの分け合いをする及第点を目指す世界ではなく、1位が勝ってすべてを得るとともに2位以下は敗者となってなにも得られない、そんなオールオアナッシングな世界。例えば「コンペ」みたいな概念がある仕事は、この種に分類されるのではなかろうか。

 

さて、自分の仕事は才能集約じゃない、量がものをいう泥臭い仕事だ、と思うひともいるかもしれない。しかし、本当にそうだろうか?

 

実際、ホワイトカラーの仕事は、かなり才能集約にシフトしているように思う。

鍵となったのは情報化であろう。業務の大部分を占めていた情報の転送や処理に関わる時間が著しく短く、効率化されて、残りは「突出した才能による解決が待たれる本質的な問題」かつ「解決されれば圧倒的優位が約束される問題」になっているように思う。*1

“すごいやつ”が“すごい仕組み”を考えれば、もっと効率化できて“圧勝”できるけど、その才覚が足りないので仕方なく人海戦術で補っているという状態。あなたの仕事はそうじゃないと、本当に言い切れるのだろうか。

 

 

突出した才能と突出した無能

労働集約的産業では「1+1を3にも4にもするんだ」というスローガンが使われることがある。1+1が2になるのは当然の前提で、それ以上の効果を狙え、という趣旨だ。

一方、才能集約的な業務では、1+1が2になることなどはめったにない。個人や個性、エゴに強く依存した才能を「合体」させるにはそれだけで調整コストが掛かる。映画監督が「合作」するのはすごく大変であるし、監督10人で合作しようなんて話は聞いたことがないだろう。そんなイメージ*2。繰り返すが、量の問題ではないのだ。

 

一方、才能はとても損なわれやすい。

とかく、1+1を1未満や0以下にする「マイナスの人間」との相性がとても悪い。そもそもこういう人間と相性がいい仕事なんてないんだけど、特に才能集約型の仕事は個の持つ力が重視され、無駄な手間が削ぎ落とされた状態で最高効率を追求し、「勝利」を目指すという性質上、無能な人間が及ぼす影響が大きい。

手間だけがかかる仕事は減少していく一方なので、今までのように、能力不要で手間ばかりかかる仕事にxx管理とかxx推進とかxx統括とかそういうくくりをつけて放りこむ、という作戦がどんどん使いづらくなっている。

1人の人間、1回の間違いのせいでなにもかもが全部だめになる、そんな危険をはらんだ才能集約型の産業では、突出した才能が待たれると同時に、突出した無能は確実に排除しなければならないのだ。

 

ごまかしから生じる悪影響

さらに問題なのはこの種の人間自身の「ごまかし」だ。

「自分にできる仕事は実は誰にでもできるルーチンで、そのルーチンの改良は(突出才能を持たない自分には)できません」なんてことが露呈したら即座に「いらない人間」となってしまう。だから必死に自分の仕事は自分にしかできない“ことにしておく”し、その過程で情報を遮断したり*3問題をごまかしたりするし、なにかを変えて影響力が弱まることを極度に恐れる。

 

思い当たることはないだろうか。

実際に起こる問題は、本質的に難しい問題ではなく、この種の人間が自分の間違いや勘違いの露呈を恐れて隠蔽したりごまかしたり先送ったり見誤ったりしてそれが引くに引けない状況になってから発覚する、なんてパターンばかりではないだろうか。こういう人間のプライドを傷つけないように注意しながら仕事を配分する、というようなことばかりにコミュ力を使っていないだろうか。物事を前に進めるより、足を引っ張り続けるバカの対応にいっぱいいっぱいになっていないだろうか。

 

彼らの立場からすれば生活を守り、家族を養うためにそういうことをするのはとても理解できることであるが、及第点ではなく最高効率を目指すために人々が協力しなければならない才能集約型産業にとって、この種の人間は本当に相性が悪い。

 

仕事は才能ある人間だけがすればよいのではなかろうか

ここまでの話をまとめると、才能が求められる社会に変化しているのに、労働集約的な仕組みに基づいて個々人の生活が形作られているため、そのいびつな構造のごまかしのために多くの富が「損なわれている」と言えるのではなかろうか。

 

では、才能ある人間だけが仕事をするようにしてはどうだろうか。

卵が先か鶏が先かわからないが、「生活の心配」を取り払ってあげれば大半の人、特に無能な人間は仕事をしないだろうし、彼らが排除されればごまかしから生じる悪影響が激減されて、彼ら自身を養えるだけの富を生み出せる事ができるのではないだろうか*4

 

仕事をしない人間は、自分の才能をさがすもよし*5、文化的営みとしての八百屋をするもよし、人の本分に従って子を産み育てるもよい。別にプロ野球選手の腕前がない人間が草野球を楽しんでいても誰も文句は言わないように、趣味として仕事をすることに誰も文句は言わない。問題は能力もないのに「仕方なく」プロの世界に入り込み、勝利の邪魔をするようなことだ。

 

そんなわけで、わたしは、突出した才能が生んだ莫大な富の残りカスでその他多数を養う、そんな偏った不公平な社会を望むことをここに表明する。

*1:ここでいう問題のスパンは年とかではなくて4半期くらいのイメージ。問題を解決すれば次の4半期は圧勝。でもすぐ追いつかれる、みたいな

*2:実際は映画監督みたいな完全個人集約な才能と、「ハリウッド」「Google」みたいなある一定以上の優秀さの集合が発揮する才能とでは話が違うような気がするがまあおいておく

*3:いますよね細かい手続きとか過去の経緯とかに詳しい物知りさん。でもそれってあなたの中にとどめておかずに共有したほうがよくないですか?あ、でもその情報が皆に共有されたらあなたの存在価値なくなっちゃいますもんねぷぎゃー、的な人

*4:ここでは個人の話をしたが、会社や業種レベルでも似たような話がある。 例えば、問屋。手続きの手間が軽減されて、産地直送できるようになったのに「問屋」を通す必要なんてないんだ。エンドユーザーからしても生産者からしても「問屋」に存在価値がないのは明らかだが、しかし会社や業界が潰れたら従事している人は路頭に迷ってしまう。だからあの手この手でごまかして「あるべき姿」から離れて、時には既得権を行使して全体最適を阻害してしまうのではないだろうか。

*5:才能というと生まれ持った先天的なものというイメージがあるかもしれないが、世にあるバンドだとか会社だとかの大半が「たまたま出会った学校や職場の同僚同士」で設立されていることを見ると、才能の発現は人同士の相性と強く関係しているものだと思う