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UXエンジニアになりたい人のブログ

転職活動はじめてすぐやめた

否定派によるフラットデザイン擁護論

わたしはフラットデザインの否定派だ。

コンピューターはあらゆる物事をあらゆる角度から解決してくれる。それゆえ「なにを意図してどう解決させようとしているのか」をうまく伝えないと、とっつきづらさや失望につながってしまう。画面上の凹凸、ウインドウの形、マウスカーソル、タッチスクリーン上のめくれた紙風のエフェクトなど、UI上の様々な表現はコンピューターに『わかりやすさ』『親しみやすさ』を求めて先人たちが苦労を重ねてようやく創り上げた“共通言語”であり、UXの基礎をなすものだ。この先人の知恵と苦労の結晶を単なるオシャレさだけで破壊するのは合理性に欠ける。

というのが基本的な主張だ。もっと端的に行ってしまえば、ボタンも境界もわからないような画面をみてもどう使っていいかわかんないじゃないかバカ、である。いまもその気持ちはあまり変わっていない。
しかし、最近別の視点もあるな、と思い始めたのでそれを記してみたいと思う。

 

雑誌と百科事典

Cineaste365: "Metropolitan" - Whit Stillman (October 22, 2013 - Day 010)
Cineaste365: "Metropolitan" - Whit Stillman (October 22, 2013 - Day 010)

デザイン評価には主観が入る。が、あえて誤解を恐れずに断言するなら、フラットデザインがオシャレなのは間違いない。それに対して、伝統のデザインは古めかしくてダサい。iOS7に否定的だったわたしでさえ、今iOS5の画面を見ると“重い”なと思ってしまう。

古くなったからダサくなったのか、ダサくなったから古くなったのか、それはよくわからないが、ともかく、厳密で親切でわかりやすくて、ダサい。

ちょうど、雑誌と百科事典のような関係だろうか。百科事典は、科目を辿り、項目を調べて、必要であれば関連項目も調べて、体系的な知識を得ることができる。少し使い方やルールを覚える必要があるが、一度覚えればどんな項目でも同じやり方で調べられる。でも分厚くて、古めかしくて、文字ばっかりで、ダサい。

雑誌はカラフルでキャッチーでオシャレで、表面的な情報を心地良く得ることができる。が、浅くて偏りやすく、雑誌ごとに(その読者層に合わせて)紙面がバラバラだ。

どちらがいいというわけではなく、それぞれの冊子を利用するコンテキストに合わせてデザインされているのだろう。

 

iPhone5の煌めき

iPhone5のホワイトモデルを初めてみた時は面食らった。キラキラと輝いてまるで宝石のようだったからだ。聞けばダイヤモンドカッターでエッジが加工されているらしい。

iPhone 5 - Lightning Connector, Speakers, and Headphone Jack
iPhone 5 - Lightning Connector, Speakers, and Headphone Jack

宝石のような煌めきを放つそれを、皆思い思いのケースに入れて、大事に扱っている。iPhoneに限らず、他のスマートフォンのレビューを見ても、高級感を感じる素材が、とか、塗装の高級感が、とかそういうことが事細かに書いてある。

 

 

なにがいいたいのか。

つまり、世間的にはもうスマートフォンはわたしたちが思い浮かべるコンピューターじゃないんだ。完全に、ライフスタイルを表現するアクセサリーになったんだ。

ペルソナは機械に詳しいビジネスマンからオシャレを楽しむOLに。シナリオは「厳密で正確に情報を処理したい」から「ぱっと見で目的を達成したい」に。

スタバでアンニュイな表情の美女が1分置きにチラ見するスマートフォン、っていう、そういうアイテム。

そんなとき、美しく煌めくスマートフォンの中で、スクリーンだけが古めかしかったらおかしいではないか。もっとキャッチーで、文字通りスマートであるべきではないか。OLがスタバで小脇に古めかしい百科事典を抱えていたら奇妙だ。カラフルな雑誌をかかえているほうが「らしい」ではないか。

 

デジタル時計のように正確な分秒がわからなくても、高価な機械式時計を欲しがる人はいる。ジョギングができなくても、ハイヒールを欲しがる人はいる。N-3Bより防寒性が劣っても、ノースリーブのコートを欲しがる人はいる。

スマートフォンとそのスクリーンはもうそういう種類のものになったんだ。ならば、この性急でドラスティックなデザインの変化もさもありなん、と思えるのではないだろうか。

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とはいえ、手段として選ばれたフラットデザインは、明らかにやり過ぎだ。まともに時刻の読めない時計、まともに歩くことすら困難な靴、といったものが簡単にできてしまう上に「まとも」なものをつくるのにかなりセンスが要求される。

これはさすがにあんまりで、揺り返しが来るだろうとは思う。が、その時に、過去のコンピュータ好きの感慨に浸って「うわーい百科事典の時代まで戻したーーい!」などと老害たる発言だけをしないように気を付けようと、いまは思っている。*1

 

*1:デザインに限らず、その他の部分もどんどんフラットに、目的にダイレクトになっているように思う。思えばフォルダという概念が希薄になって久しい。もうC:¥Program Filesでもusr/local/binでもない。マイ ドキュメントであり、カメラロールであり、ギャラリーであるのだ。コンピューターの中を少し理解して、触って、動いて、ちょっと嬉しく、ちょっと優越感。もうそういうんじゃないんだ。極限まで削ぎ落とされて、本質だけがバーンと出る、きっと進化としてはそれが「正しい」んだろう。そこに懐かしさを見出すのはきっと老害化しているんだろうなあと自分では思う