野球の試合において「この試合は絶対負けられない試合だ!各々が力を100%出して頑張るように!」という指示は成立する。
サッカーの試合において、同様の指示は成立しない。プレーヤーからすると、で?攻めるの?引くの?サイドから攻める?中央から攻める?個人技で突破?パスで撹乱?などと、聞きたいことが山ほど出てくる。
野球の試合において「次の1球でエンドラン」という指示は成立する。その指示があったのに走らなかったり当てなかったりしたら、明らかに“失敗”であり、指示が実行できなかった人間が圧倒的に“悪い”。
サッカーの試合において「次ボールが来たら必ずゴールに蹴り込め」という指示には意味が無い。そもそもゴール近くでボールを受けるかすらわからないのに、そんなことを言われても困ってしまう。また、「DFの裏のスペースに走りこめ」という指示に対して、走りこんだのになにも起きなかった場合、一体誰が悪いのかはっきりとしないことが多い。
野球の試合において、交代選手がなにをすればよいかわからない、といったことは起こらない。守備が変わったのなら、そこを守るだけ、代走なら走るだけ、代打なら打つだけ。明確である。
サッカーの試合において、交代選手が何をすればよいか、自分以外の選手が交代したことによって自分がどうすればよいか悩むということはありうる。交代によるメッセージが伝わらないことがあるからだ。
野球とサッカーの違い
野球とサッカーの違いはなにか。それは、自由度の違いである。野球は走攻(=打)守のいずれも、状況が固定的である。塁は進むものだし、打順は一定だし、どんな試合でも守備範囲は変わらない。走攻守ともに明確な区切りがあり、走ってる人間が次の瞬間突然守りに回ったりすることはない。
サッカーはそれらに相当することが全くない。どこにボールがあっても構わないし、いつ攻めても守っても良い。自分とボールと他者の位置関係で状況が決まり、またそれがめまぐるしく変わる。
野球の監督は、状況が固定的であるがゆえに、パターンの中で一番優位/効率的になるようなものを選択し、それを確実に実施させるために細かい指示を行う。他方、打ったら一塁に走るとか、レフトは外野の左側を主に守るとか、そういう指示は行わない(それしかありえないのだから、そんな指示をする必要がない)
サッカーの監督は、状況が流動的で、パターンがあまりに多いため、このような細かい指示を行うことができず、大きな方向性を示すのみになる。個々の細かい状況に対する対処はプレーヤーが「方向性から感じ取れ」ということになる。
組織マネージメントの観点からみると、野球のように固定的な状況であれば、プレーヤー個々の役割を細分化し、起こり得るパターンを整理し、常に最高効率で実施できるようにすることが大事である。効率性が重要な指標であるため、数字的なカイゼンややりかたの均質化などが重要視される。
サッカーのように流動的な状況であれば、状況を認識し、それを的確に正確に伝えることでプレーヤー同士が共通の目標に向けて協調動作するよう仕向けることが大事である。協調性が重要な指標であるため、方向性の合致、ゴールイメージ、「空気感」的なものが重要視される。
サッカーのほうが自由度の分だけリスクが大きく、マネージャープレーヤー双方ともに責任が大きい。これは野球サッカーどちらが優れているかという話ではなく、ゲーム性の違いである。
ここまでが前振り。
さて、この状況で、サッカーの試合に野球の監督が割り当てられると、当然よくわからないことになる。
- スタメンとFW,MF,DFが発表されるだけで方向性が示されない。メンバーが変わっても意図が説明されない。
- 細かいことについてああしろこうしろ、ボールに触れるたびに逐一報告しろ、なぜうまくいかなかったかを考えて練習に還元しろ、打率を出せなど、プレーヤーからすると意味がわからない指示が出る。
- 打撃連、守備連、走りこみこそが練習の全てだと考える。鍛錬と結果の因果関係を重視する。一つ一つの状況について「答え」を探したがる。
- ゴールへのアイデア、いい形、ファンタジスタ、などといった概念が監督に理解されない。
よくある「上司がなんもしない上に邪魔ばかりする」という愚痴、結構この野球とサッカーの比喩で説明できたりしないですか?
上司(野球監督)の立場からすれば、ちゃんとポジションを与えて要所ごとに指示はだしてるのに文句ばっかりでるし、「どんなことをやりたいからどんな練習をするのか」というロジックを答えられないし、もっと自分に任せてほしいと言うくせに方針がないと動けないともいうし、上司はなにもわかってないと陰口は叩くし、、、最近の新人はわけわからん、といった感じではないでしょうか。
サッカー化する世界
ではなぜ野球の監督がサッカーの試合を監督する、なんてことが起きてるのか。
おおきな要因に世界がどんどんサッカー化している、正確にはサッカー的要素の割合が大きくなっているというのがある。
昔はもっと野球だった。昔はもっと“時間がかかること”がたくさんあった。本質的ではないけども大きな割合を占めることがたくさんあった。モノづくりなんかでは顕著だけども、「モノを創りだすこと<生産の効率化」の側面がかなりあった。だから、そこに重点的にプロセスを作り上げる(野球でいうポジションの役割を固定化すること)に意味があった。
そして、このような「固定的で時間がかかること」がどんどん消滅している。特に情報にかかわることがもっとも顕著。IT革命によって情報の処理ややりとりにかかる時間的コストが激減した。そして相対的に“流動的で複雑なサッカー的世界”がどんどん割合を増すようになった。
ある日突然野球がサッカーに変わったわけではないし、野球的なゲーム観はまだ至る所にある。なので、野球監督氏はそれに気づかないし、そもそも社会人になって以来「野球的な効率化こそ仕事なり」という価値観が刷り込まれているなら、それ以外のゲームが存在するだなんて思いつきもしてない可能性もかなりある。
他方、サッカープレーヤー的な若者はIT革命が起こったあとのことしか知らない。ボタンひとつで「いいね」できる以前のコミュニケーションを知らない。今の価値観からすると考えもつかないような困難とそれに対抗した歴史があって、そこから野球的規律と野球的価値観がつくられたことを知る由もない。
だから、かみあわない。
結論
まあだから、とても丁寧に書いてきたけど、要するに野球監督氏はバカなんです。現実のゲームがサッカーに変わっているのにいつまでも価値観を変えることができず、迷惑を撒き散らす。しかし、本人は野球監督としてやるべきことをやっているつもりなので、改善の余地が無く自覚もない。自分がバカであることに気づかない種類のバカというとてもやっかいな人種なのです。
希望があるとすれば、より偉い人が「サッカーの試合なのに野球みたいな指示してどうすんだバカ」と言ってくれることだけど、そもそも偉い人が伝説の野球監督であったりすることが多いのでたちが悪い。
ということでかなり“詰んでる”状態です。
もしこれを読んでる管理職・マネージメント職の方で、どうも部下と話が噛み合わないがなぜなのかわからない、というお悩みをお持ちでしたら、ほんの少しでも、自分がサッカーの試合なのに野球の監督をしている可能性について考慮いただければ甚幸です。かしこ